まなぶ

vol. 14

こんだあきこさん スペシャルコラム 第5回「死があるから生きるのだ」

コラムを書いた人:

文筆家・譽田亜紀子(こんだあきこ)

文筆家。奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡の土偶との出会いをきっかけに、各地の博物館、遺跡を訪ね歩き、土偶、縄文時代の研究を重ねる。現在、テレビ、ラジオ、トークイベントなどを通して、土偶や縄文時代の魅力を発信する活動も行っている。

「死があるから生きるのだ」

5回連載の今回が最終回。
何をお伝えしようか考えたのですが、縄文人たちの死生観を私なりにお伝えできればと思っています。
と、言っても、彼らが書き残してくれたわけではありませんから、多分に想像の世界になりますが。

縄文人たちの暮らしは自然に支えられて成り立っている、ということは既にお伝えした通り。
彼らは常に飢えと戦い、いかにして食料を確保するかを四六時中考え暮らしていました。また、自然は自分たちちっぽけな人間の力では到底及ばない、コントロールできないものだということも強く意識しながら生きていたことでしょう。シカやイノシシと同じように、ただ「人間」という種属であるだけで、自分たちが世界を支配するというような思想を持ち合わせていなかったと私は考えています。人間も自然の一部に過ぎないと。だからこそ、自然界に存在する目に見えない存在(霊的存在)を身近に感じながら、畏怖しながら日々を生きていたと思うのです。

とはいえ、常に怯えながら生きていたわけではありません。彼らが作り出した様々なものを見ていると、とても朗らかな気持ちになります。少しグロテスクなものもありますし、過剰な装飾に悪趣味だなと思うものもあります。しかし、そこにあるのは、「生きていることへの喜び」なのではないか。そんなふうに私は思うのです。

自然界に存在するものは、必ず死んでいくのだということを彼らは知っています。ただそれが、遅いか早いかだけの違い。死は、すべての生き物に平等に与えられた「ひとつの装置」であり、それがあるからこそ、懸命に毎日を暮らし、楽しみ、泣き、笑っていたのではないでしょうか。縄文人は、いつ途絶えるかわからない自分の命を慈しむように懸命に生きていた。

振り返って現代はどうでしょうか。忙しさのあまり、自分が死んでしまう存在であることさえも忘れてしまっている。命は有限であるともちろん分かっているけれど、本当に、その意味が理解できているだろうか。これは私自身への戒めでもあります。
命をちゃんと使っているか。

日々の暮らしの中で、「死」を意識することはないと言っていい。しかし、少しだけそれを意識することができたならば、縄文人たちと同じように、とにかく命を使い切る生き方に近づけるのではないか。そんなことを思っています。

悩むこともあります。泣きたくなる時なんてしょっちゅうです。でも、これは、生きているから感じることができる感情なのです。
死があるからこそ、そこに向かって少しでも楽しく生きていく。
そんなことを、縄文人たちから教わった気がします。
皆さんの暮らしの中にも、縄文人感覚を取り入れていただけましたら幸いです。

文筆家・譽田亜紀子(こんだあきこ)

文筆家。奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡の土偶との出会いをきっかけに、各地の博物館、遺跡を訪ね歩き、土偶、縄文時代の研究を重ねる。現在、テレビ、ラジオ、トークイベントなどを通して、土偶や縄文時代の魅力を発信する活動も行っている。

文筆家。岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡の土偶との出会いをきっかけに、各地の博物館、遺跡を訪ね歩き、土偶、そして縄文時代の研究を重ねている。現在は、テレビ、ラジオ、トークイベントなどを通して、土偶や縄文時代の魅力を発信する活動も行っている。現在は東京新聞および中日新聞水曜日夕刊にて「古代のぞき見」連載中。著書に『はじめての土偶』(2014年)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、ともに世界文化社)『ときめく縄文図鑑』(2016年、山と溪谷社)『土偶のリアル』(2017年、山川出版社)『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)『土偶界へようこそ』(2017年、山川出版社)『縄文のヒミツ』(2018年、小学館)『折る土偶ちゃん』(2018年、朝日出版社)、近著に『知られざる弥生ライフ』(2019年、誠文堂新光社)がある。

土偶と縄文文化をすべて見る